映画『グランド・ブダペスト・ホテル』には何枚かの絵画が登場するんですがその中でも目に留まるのはエゴン・シーレとクリムトの作品です。
グスタヴが「少年と林檎」を持ち去る際、その代わりにその辺にあった絵を壁に掛けるというシーンがあります。
その時に掛けられた絵がどう見てもエゴン・シーレ(風)の絵。
絵が好きな方ならおそらく見てすぐわかるでしょう。
私もちょっと趣味で絵の勉強したことがあったので(美術検定は3級止まり)このシーンを見たときすぐにわかりました。
ただ、タッチはエゴン・シーレですがこの絵自体は調べてみても見つからなかったんですよね。
ドミトリーが破ってしまうから実在する絵は使わなかったのでしょうか?(実在してたらすいません)
そしてマダム・Dがグスタヴと話すシーンでは壁に少なくとも5枚ものクリムトの絵がかけられていました。
これはおそらくマダム・Dが持ち込んだものではないかと思われます。(ホテルのものだったとしてもホテル自体がマダム・Dの物なので同じことです)
改めてエゴン・シーレの人生を見直してみたところ、普通の人が経験しないような特殊な人生を送られていた方だったのでエゴン・シーレの人生のご紹介とゼロの共通点、そして
なぜマダム・Dはクリムトの絵を何枚も持っていたのかも考察したいと思います。
『グランド・ブダペスト・ホテル』天才すぎたエゴン・シーレの波瀾万丈な人生
この投稿をInstagramで見る
エゴン・シーレってどんな画家? 生い立ちは?
1890年、エゴン・シーレはオーストリアのウィーンの北西30kmほどのドナウ川沿いに位置するトゥルンという町で駅長の子として生まれました。
放っておけば一日中絵を描いているような少年だったそうで父親にスケッチブックを燃やされたこともあったんだとか。
誰かに影響されたわけでもなく本当に生まれつき絵を描くことが好きだったようです。
しかし、15歳の時に駅長をしていた父親が病で亡くなってしまい裕福な生活は一変します。
叔父が後見人となり翌年には画家として身を立てるためにウィーンへ。
そこで早速天才っぷりを発揮。
ウィーン美術アカデミーに最年少16歳で見事合格してしまいます。
しかしここからが本当の天才らしい行動をとるエゴン・シーレ。
アカデミーの保守的な授業に失望して反抗的な態度で臨んだため担当教授から
「悪魔が君を私のもとによこしたんだ!」
と叫ばれたほど。
やはり天才は一味も二味も違う人格を持ってるもんですね。エゴン・シーレは反対にこう言っています。
「私の未熟な先生達は常に最大の敵だった」
私だったら保守的な授業と思ったとしても基礎も大事だよね。と自分を納得させて授業を受けると思いますが、エゴン・シーレのような人はそんなの時間の無駄だと思うんでしょうね。
エゴン・シーレ クリムトとの出会いと心酔したわけ
その後シーレは知識人たちの交流の場カフェハウスの一つでグスタフ・クリムトと出会います。
当時、ウィーンで装飾的な絵画で一世を風靡していたクリムトは生涯を通して女性を官能的に描きエロスこそ人類の命を永遠に繋いでいく生命の根源だと言っています。
ウィーンが建設ラッシュだった頃は黄金で彩った作品を多数制作していました。
しかし、景気が後退するにつれ明るく、多彩な色を使い始めます。
その後、保守的なウィーン画壇に対抗して“ウィーン分離派”という画壇を結成しています。
美しい裸のモデルを何人もはべらせ気の向くまま筆をとる、そんなクリムトに影響されて「芸術を追求するためならどんなことでも許される」そんな思いがシーレの心に刻み込まれたそうです。
誰でも分け隔てなく相手をするほど懐の広かったクリムト。
エゴン・シーレはそんなクリムトに心酔していきます。
クリムトのような巨匠が自分と同じようにウィーン画壇に反抗心を抱いてるとなれば、やはり自分は間違ってなかったんだ、と嬉しかったことでしょう。
エゴン・シーレ 受け入れられない芸術
その後クリムトにパトロンや画商を紹介してもらうもプライドの高さが災いして上手く付き合うことができませんでした。
そしてもっと自由に絵を描くためにお気に入りのモデル、ヴァリー(17歳)を連れて思い出の避暑地チェコのノイレンバッハへと移っています。
クリムトのようにモデルで溢れたアトリエを理想としていたシーレでしたがモデルを雇うお金がなかったためにあろうことか村の子供達をアトリエに招きます。
このせいで村の人々は神経を尖らせるようになり、ある日シーレは逮捕される事件が起きます。
1912年に家出していた少女を家に泊めたことで誘拐扱いされてしまうのです。
その後誘拐の嫌疑は晴れますが家を家宅捜索された時にエロティックな素描が見つかり芸術とは見なされずポルノと断定され3日間の禁固刑を受けています。
エゴン・シーレ ミューズのヴァリーとの別れ
傷心したシーレはヴァリーとウィーンに戻りますが第一次世界大戦が始まった翌年、向かいに住む一家の娘エディットと顔見知りになり結婚します。
シーレは世間に認めてもらうためヴァリーではなく良家の子女を選ぶんですね。
いわゆる出世のためというやつです。
それでも今までの関係を続けようとしたシーレでしたがエディットから反対されてしまいます。
シーレにとってヴァリーが特別な存在だったことをエヴェットは感じていたんでしょうね。
絶望したヴァリーはシーレのもとを去り赤十字看護士に志願。危険な戦地に赴き1917年、病にかかり亡くなります。23歳という若さでした。
ツラい時もシーレのもとから離れず一緒に乗り越えてきたヴァリー。結局自分の卑しい身分のせいで捨てられてしまった彼女の心の傷は計り知れないものだったでしょうね。
エゴン・シーレ 画風の変化と成功、そして死
その後、シーレの画風は死をイメージする暗い色調ではなく明るく幸福を感じさせるものへと変化。絵も高額で売れてくるようになります。
皮肉にも彼らしい画風をやめたことが成功へと繋がったわけです。
クリムトがスペイン風邪に感染し、亡くなるとその後を引き継ぐようにウィーン分離派展でリーダーを務めています。
しかし画家として成功し始めていた矢先、1918年妊娠中だった妻のエディットがクリムトと同じスペイン風邪により亡くなってしまいます。
そしてその3日後、シーレ自身も同じ病で命を落とすのです。28歳の若さでした。
いかがでしょうか?
28年という短い人生の中ですごい体験をされてますよね。
ゼロと比較すると生い立ちや学歴、性格や才能は逆と言ってもいいくらいですが、人生の師とも言える人物に出会い、跡を引き継いだことや愛する人と子供を流行病で亡くしたとこなんかは似ていますよね。
映画では刑務所に入ったのは師であるグスタヴの方でしたが。
『グランド・ブダペスト・ホテル』マダム・Dがクリムトの絵を持っていたわけを考察してみた!
マダム・Dが最後にグランド・ブダペスト・ホテルで迎えた朝。
グスタヴと向かい合って朝食をとるシーン。部屋の壁には少なくとも5枚のクリムトの絵がかけられています。
4枚の絵は「ブナ林」もしくは「ブナの木」、
そしてグスタヴの真後ろにある絵はおそらく「カンマー城公園の並木道」。
泊まりにきたホテルにまで絵を持ち込む、このことからもマダム・Dがクリムトの大ファンなのがわかります。
しかもマダム・Dの着ている服の模様はクリムトがよく絵に描く渦巻や四角などの幾何学模様。
黄色い服もクリムトが一時期よく絵に使っていた金を連想させます。
そしてグランド・ブダペスト・ホテルのオーナーでもあったマダム・D。ホテルの内装もきっと彼女好みだったのでしょう。
「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォーとしての運動もしていたクリムト。
ホテルのエレベーターの装飾はそのアール・ヌーヴォーの特徴である曲線と植物をモチーフにしているし、出入り口の雨除け(?)のデザインはアール・ヌーヴォーとしても代表的なエクトール・ギマールがデザインしたパリの名物メトロポリタン地下鉄の入り口と同じだったりとこの辺にもクリムト愛を感じさせます。
しかもマダム・Dが暮らしていたルッツ城にも『少年と林檎』が飾ってあった部屋に一枚だけですが、クリムト作「エリザベート=バッホーフェン・エヒト男爵夫人の肖像」であろう絵がありました。
はじめ私は「クリムトの絵」=「金持ち」のイメージから超富豪の象徴としてクリムトを選んだのかと思ったんですが、これは「クリムト」=「グスタヴ」だったのではないかと思います。
なぜならクリムトのファーストネームは「グスタフ(Gustav)」
そう、「グスタヴ(Gustve)」とほぼ同じ名前なのです。
めっちゃ単純な理由からの考察になっちゃいますが、そう考えるとこれだけクリムトの作品を持っていたわけですからマダム・Dのグスタヴへの大きな愛を感じ取れますよね。
しかもクリムトに多大な影響を受けたエゴン・シーレ(風)の作品までもしっかり出すところがまた細かい演出してるなぁと改めて感心させられます。
絵の知識が全くない方なら気にも止めない事でしょうに。
ウェス・アンダーソン監督が本当にこのような意図で演出したかはわかりませんが、こんな風にファンを考察させてくれる彼の作品はやっぱり魅力的ですね!
映画『グランド・ブダペスト・ホテル』のあらすじを登場人物ごとに書いた記事や香水、鍵、お菓子についてはこちら↓
映画『グランド・ブタペスト・ホテル』の結末やオーウェン・ウィルソンのこと。出演している日本人についての記事はこちら↓
コメント